知性あるものはこう語る『現代霊性論』

霊性、現代ではスピリチュアリティと同義として使われているこの言葉をテーマに、内田樹先生と釈徹宗先生によるかけあいによる講義というかたちをとった本。

スピリチュアルというものは学者が扱うにはあまりに危うい。スピリチュアルなんてものが存在しているという前提にたつとトンデモ扱いされてしまうのでたいていの学者さんは真面目に取り合わない。だからてっきりスピリチュアルについて批判的な立場からメッタ切りしている本なのかと思ったんだけどどうやら違うみたいだ。

最初に本書のスタンスが提示されるんだけど、なるほど頭のいいひとは霊性をこう扱うのかと思わず膝を打った。キーワードは「現象学的アプローチ」だ。

現代霊性論

現代霊性論

現象学的アプローチ

日々の生活の中で、私たちの思考や経験は「霊」という「わけのわからないもの」に現実には支配されています。それはアカデミックな科学の中では主題的には議論されることがほとんどありませんけど、現実の生活習慣や身体的実感には深く入り込んでいます。 (中略) 霊が現にそこに具体的・計量的な実態として存在していなくても、あたかもそのようなものが存在しているかのように機能しているのだとしたら、私たちはそれについて学的に考察することができる。私はそう思います。霊そのものを「はい、これが霊です」と目に見えるかたち、手に触れるかたちで提示することが出来なくても、霊がどのように機能しているかについての「現象学的」アプローチは可能だろうと思います。

現象学的アプローチ」とは何かというと、例えばそこに木が見えるとする。A君にも見えているし、B君にもC君にも見えている。じゃあそこにある木が僕の見えているとおりのものであるかどうかは確実にはわからないけれど、とりあえずそこに木があるということについてはみんな合意できるんじゃないか、そういうことを本書では現象学的アプローチとしている。

日本人なら誰でも葬式をあげる。日本人だけじゃない。世界中ほとんどの文明で葬式をする。葬式をあげなければ何か悪いことが起こる、というのは日本人にとっての共通認識であるように思える。霊なんてものは存在しないと決めつけて疑わないような堅物でさえ、葬式とは無縁でいることはできない。

じゃあ霊性というものをほとんどのひとは何らかのかたちで認識しているんじゃないか。世界中で多くの人が宗教に入信しているし、幽霊や宇宙人や存在していると主張している人たちがいるし、シャーマンや霊能者やサイキッカーなど超自然的なものに触れることができるという人たちがいる。

霊性なんてものがあるかどうかはわからないけれど、まるで存在しているかのように多くの人は振舞っているんじゃないか。ではその振舞っているというところについて料理してみよう。それが本書のスタンスである。


本書では霊界を行き来したとされるスウェーデンボルグ出口王仁三郎みたいなスピリチュアル界の大物や、シャーリー・マクレーンエリザベス・キューブラー・ロス博士などニューエイジブームを後押しした人たちのことも話題に上がっているが、決して疑ってかかっているでもなければ妄信しているわけでもない。「そういう考えもあるよね」というニュートラルな態度なのだ。そしてそういうどちらに肩入れするでもないニュートラルな態度、そういうのが本当の知性あるもののあり方なんじゃないかなと思う。


本書はかけあい講義という形式になっているがこれも面白い。対談本ではない。内田樹というフランス現代思想の先生と釈徹宗という自身もお坊さんである宗教思想の先生二人が実際に学生たちの前で講義しているのだ。

二人の守備範囲が違うから当然話題も広範囲に渡る。霊性とは何かというところから始まり、言霊信仰、霊能者、占い、仏教・神道・カルトなど日本におけるスピリチュアルムーブメントについて、宗教政治と宗教、宗教の役割、ととても一冊の本では語り尽くせないほどだ。

釈先生の宗教についての広範な知識がネタを提供しつつ、内田先生がそれを独自の視点から斬り込む。一粒で二度おいしい、なかなか有意義な読書だった。