語られなかった手塚治虫の姿『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~ 』

「まるで肉体労働者のように、眼で原稿を喰らうように描いていました」

なんだろうこの泥臭さは。見ているだけで汗の匂いが漂ってくる。
こんなものを見たあとでは「天才」や「神様」なんて言葉で呼ぶことすら生ぬるい。


今や神話化されてしまった手塚治虫の当時の姿を、関係者へのインタビューを通じてあぶり出していくドキュメンタリー。
にわかには信じがたいエピソードの数々には驚かされる。
特に講演のためにアメリカに行った際の、原稿の期日が迫っていたために日本のアシスタントたちに電話越しで背景の指示を出したときの話は強烈だ。


遠く離れたアシスタントたちにどうやって指示を出したのか。以前描いたマンガをもとに指定するのである。
「『ブラック・ジャック』3話前6ページ3コマ目の校門をこのコマの中央やや下に開いた状態で――」
「3ページ3コマ目は『三つ目がとおる』2話前10ページの住宅街をよりクローズアップして全面に」
なるほどこれならできないこともない。でもどうやって?アメリカにいる手塚のもとには資料など何もないのに。
なんと手塚はそらですべてを指示していたのだ。何話目のどこに何が描いてあるかをすべて記憶していたのである。それだけではない。仕事場の資料集の位置やその何ページに必要な資料があるかをすべて記憶していたのだ。


そんな超人的なエピソードにはやはりヤレヤレさすが神様だ、と言ってしまいたくなるけれど本作で印象的なのは労働者のような手塚の姿だ。
地面を這いつくばるように描き、コピー機と机の隙間に段ボールを敷いて僅かばかり寝る。持てる時間をすべてマンガにつぎ込んでいくのである。
そんなのについていかなくてはならない周りも大変だ。いまならブラック企業なんて言われそうな環境だけど、ただそれでも周りは手塚に感化されてついてきた。そして手塚の情熱に引き寄せられるかのように優秀な人達も集まってきた。
手塚のもとから有名漫画家が続出していたり、当時関わった多くの編集者が今では出版界の要職についてマンガを支えているのも偶然ではない。


今では洗練され、大きく花の開いたように見えるマンガ界も、手塚治虫を始めとする漫画家たちの、汗を流し、ホコリにまみれ、泥をかぶるような強烈な熱意があったからこそあるのだなと痛感する。マンガ好きなら読んでおくべき傑作。