ブログを移転しました

はてなブログが使えるようになったので、年も明けたことだし気分も一新とばかりに新年からタイトルも少し変えて新しいブログへ移行しました。

新しいブログはこちら:しまうまノート

しばらく使ってみた感想としては、シンプルになってデザインも垢抜けたけど、今のところははてなダイアリーの方が使いやすいかなあといった印象。
できる限り要素を削ってシンプルなのは良いですけど、まだ機能が足りなくて使い勝手が悪いときがある。
もちろんあれこれ付け足してできたのが今のはてなダイアリーであり、一からブログサービスを作ってみようというはてなの心意気は頼もしいです。まだまだ新しくできたばかりのサービスなのでこれからに期待しましょうか。

読書系Webサービスあれこれ

いつものようにWebを巡回していたらこんな記事が話題に。
最新情報はSNSで!おすすめマッチングアプリ比較!安全なアプリの選び方も伝授|マッチングアプリ漂流教室 – マッチングアプリの感想をSNSの意見を参考に紹介
こんなサイトあったっけ?と思っていたら最近公開されたばかりなんですね。
まだβ版なようですが、面白かったのでご紹介。ついでに読書系のサービスをいくつかピックアップ。

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イケメンがブスを嫌うとき

今日電車に乗っていると突然「ブス!まじブス!」という声が聞こえてきた。
本を読んでいたのですぐには状況を把握できなかったけど、どうやら二人組の男子高校生が電車を降りた女性を罵っていたみたいだ。降りていったその女性を二人で見返しながら「きめえ」とか「太!足太!」と言い続けていた。

どうして周りに人がいるのに(乗客は少なかったが)大きな声で他人を誹謗中傷できるんだろう。
非常に嫌な気持ちになったが、少し面白い現象だなとも思った。


他人に向けた言葉はその後必ず自分に返ってくる。ブスと罵ったら、お前はどうなんだよという言葉が返ってくる。
だから他人に向けて言葉を投げかけるときはその覚悟をもってやらなきゃならない。それが言葉を使う者の責任である。

このときも僕は、ヤレヤレどんな顔のやつが言っているんだ?と思いながらその男子高校生の顔を見た。
一人はまあお世辞にもイケメンとは言えない顔だったので僕も安心して「おまえ人のこと言えねーだろ」とでも言ってやれそうだったけれども、もう一人はこれが残念なことに文句のつけようのないほどのイケメンだった。これじゃあ「お前鏡見てみろよm9(^Д^)プギャー」ってできないじゃないか!


だけども僕は、こんなに容姿に恵まれた人間が、他人の容姿に対して寛容でいられないということに興味をもった。

たぶん彼は自分の容姿に絶対の自信があるんだろう。というよりそれしか自信のあるところがないのだ。コンプレックスを抱いた人間は、そのコンプレックスを刺激する人間を攻撃せずにはいられない。

彼は自分はイケメンであるということによってしか、自分のアイデンティティを保てないのだ。だから容姿の優れない人を許すことができない。他人をブスと攻撃し、まるで容姿が優れているということが世界で最も重要なことであるかのように振る舞う。
だけどそんなことで自尊心を満たしても穴のあいた器に水を注ぐようなもので、いつまでたってもコンプレックスが解消されることはない。

こういうことは他にもよくあることで、成り上がりの社長が底辺労働者を馬鹿にしたり、高学歴の人が低学歴を馬鹿にしたり、というようなことはよく見る。


ではそういった人たちから身を守るにはどうすればいいか。彼らには「人のこと言えるのかよ」という反論は通じない。攻撃に対して反撃することはできないのだ。
だから僕は見透かしてやるのが一番だと思う。目を凝らしてよく見てみると、それが攻撃ではなく心の叫びだということに気づく。
そうすればたとえ彼らにブスと罵られようが、ああこの人は自分の弱さを直視することができないんだな、と思うことができて傷つかずに済む。
もしあなたが優しい人であれば、それを彼らに指摘してあげてもいい。「あなたは容姿にしか自信がないから他人の容姿を馬鹿にすることで自尊心を満たしているのですね」とでも言ってあげればいい。たぶん猛烈に怒り狂うだろうが彼らの成長のためだ。まあ僕はそこまで優しくないのでやらないけどね。

彼らは剣を振りかざしているようで、じつは自らの最大の弱点を見せているのだ。


コンプレックス (岩波新書)

コンプレックス (岩波新書)

『ゴーストライター』


「相棒と呼んでくれた」
「名前を覚えていないからよ」


ゴーストライターとして雇われた男が、雇い主である元大統領と親しくなれたかと秘書に聞かれたときの会話だ。

彼の名前を覚えていないのは元大統領だけではない。主人公の名前は誰からも呼ばれることはない。主人公を演じたユアン・マクレガーの役名は「ゴースト」である。

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語られなかった手塚治虫の姿『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~ 』

「まるで肉体労働者のように、眼で原稿を喰らうように描いていました」

なんだろうこの泥臭さは。見ているだけで汗の匂いが漂ってくる。
こんなものを見たあとでは「天才」や「神様」なんて言葉で呼ぶことすら生ぬるい。

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豪華すぎる巨匠たちの競演『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』


ワシントンナショナルギャラリー展
国立新美術館で開催されている『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』を見てきました。
マネ、モネ、セザンヌゴッホ、スーラ、ルノワールドガ。誰でも名前くらいなら聞いたことのあるような、印象派・ポスト印象派の巨匠たちの名作がずらっと並んでいたのは壮観でした。
以下気になったものをいくつかピックアップ。

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知性あるものはこう語る『現代霊性論』

霊性、現代ではスピリチュアリティと同義として使われているこの言葉をテーマに、内田樹先生と釈徹宗先生によるかけあいによる講義というかたちをとった本。

スピリチュアルというものは学者が扱うにはあまりに危うい。スピリチュアルなんてものが存在しているという前提にたつとトンデモ扱いされてしまうのでたいていの学者さんは真面目に取り合わない。だからてっきりスピリチュアルについて批判的な立場からメッタ切りしている本なのかと思ったんだけどどうやら違うみたいだ。

最初に本書のスタンスが提示されるんだけど、なるほど頭のいいひとは霊性をこう扱うのかと思わず膝を打った。キーワードは「現象学的アプローチ」だ。

現代霊性論

現代霊性論

現象学的アプローチ

日々の生活の中で、私たちの思考や経験は「霊」という「わけのわからないもの」に現実には支配されています。それはアカデミックな科学の中では主題的には議論されることがほとんどありませんけど、現実の生活習慣や身体的実感には深く入り込んでいます。 (中略) 霊が現にそこに具体的・計量的な実態として存在していなくても、あたかもそのようなものが存在しているかのように機能しているのだとしたら、私たちはそれについて学的に考察することができる。私はそう思います。霊そのものを「はい、これが霊です」と目に見えるかたち、手に触れるかたちで提示することが出来なくても、霊がどのように機能しているかについての「現象学的」アプローチは可能だろうと思います。

現象学的アプローチ」とは何かというと、例えばそこに木が見えるとする。A君にも見えているし、B君にもC君にも見えている。じゃあそこにある木が僕の見えているとおりのものであるかどうかは確実にはわからないけれど、とりあえずそこに木があるということについてはみんな合意できるんじゃないか、そういうことを本書では現象学的アプローチとしている。

日本人なら誰でも葬式をあげる。日本人だけじゃない。世界中ほとんどの文明で葬式をする。葬式をあげなければ何か悪いことが起こる、というのは日本人にとっての共通認識であるように思える。霊なんてものは存在しないと決めつけて疑わないような堅物でさえ、葬式とは無縁でいることはできない。

じゃあ霊性というものをほとんどのひとは何らかのかたちで認識しているんじゃないか。世界中で多くの人が宗教に入信しているし、幽霊や宇宙人や存在していると主張している人たちがいるし、シャーマンや霊能者やサイキッカーなど超自然的なものに触れることができるという人たちがいる。

霊性なんてものがあるかどうかはわからないけれど、まるで存在しているかのように多くの人は振舞っているんじゃないか。ではその振舞っているというところについて料理してみよう。それが本書のスタンスである。


本書では霊界を行き来したとされるスウェーデンボルグ出口王仁三郎みたいなスピリチュアル界の大物や、シャーリー・マクレーンエリザベス・キューブラー・ロス博士などニューエイジブームを後押しした人たちのことも話題に上がっているが、決して疑ってかかっているでもなければ妄信しているわけでもない。「そういう考えもあるよね」というニュートラルな態度なのだ。そしてそういうどちらに肩入れするでもないニュートラルな態度、そういうのが本当の知性あるもののあり方なんじゃないかなと思う。


本書はかけあい講義という形式になっているがこれも面白い。対談本ではない。内田樹というフランス現代思想の先生と釈徹宗という自身もお坊さんである宗教思想の先生二人が実際に学生たちの前で講義しているのだ。

二人の守備範囲が違うから当然話題も広範囲に渡る。霊性とは何かというところから始まり、言霊信仰、霊能者、占い、仏教・神道・カルトなど日本におけるスピリチュアルムーブメントについて、宗教政治と宗教、宗教の役割、ととても一冊の本では語り尽くせないほどだ。

釈先生の宗教についての広範な知識がネタを提供しつつ、内田先生がそれを独自の視点から斬り込む。一粒で二度おいしい、なかなか有意義な読書だった。