ツイッター時代の今こそ必要『文書術』

メール、チャット、ツイッター。言葉を綴る機会が多くなる一方失われていくものもある。それは文書を書く力だ。
文書とはつまり、オープンな文章、公に向けられたメッセージのことである。ツイッターやメールばかりやっていては、近い人、親しい人にしか伝わらない文章しか書けなくなってしまう。メッセージを多くの人に伝える力、遠くまで届ける力をつけよう。それが文書術だ。

文書術―読みこなし、書きこなす (中公新書)

文書術―読みこなし、書きこなす (中公新書)

話し言葉と書き言葉

著者はまず、話し言葉と書き言葉の違いについて意識することが必要であると説く。
「うなぎ文」と言われる文がある。食堂で何か注文する際に、「僕はうなぎだ」のような言い方をすることがある。だが僕というのは人間であってうなぎではないのでこれは文として間違っている、と日本語を学ぶ外国人から指摘されたりすることがあるそうだ。もちろんこれは「僕(が食べるもの)はうなぎだ」という意味で、主語を含め全て省略してしまっても動詞のみで文が成立してしまうという日本語の特性から可能なことであり、日本語が間違っている訳ではない。
ではなぜこんな文が可能か。それはこの文が「話し言葉」だからだ。著者は話し言葉をこう定義している。

話し言葉は「今、ここ、私」というフレームワークが共有されるときに使う言葉である。

「僕はうなぎだ」と言うとき暗黙のうちにいつ、どこで、誰が、といった情報は共有されている。そして共有されているのでそれらの情報を加えなくても伝わるのだ。だが翌日そのことを誰かに話すときにはそれらの情報をを付け加えなければならないので「昨日僕は食堂でうなぎを頼んだ」というふうに言わなくてはならない。
このように目の前にいない人にもわかる客観的な情報をもった言葉が「書き言葉」だ。そして文章というのは書き言葉でなくてはならない。文章というのは目の前にいない人を対象としているからだ。
なんだそんなこと当たり前じゃないか、いつもやっているよと思うかもしれない。だが先の例は最も単純なものである。日常では意識せずとも「実際にあったこと」などは案外うまく処理しているものだ。だが「事実」はうまく伝えることはできても「自分の考え」を伝えるとなるとぐっと難易度が上がる。
人は自分にとって自明であることはついつい省略してしまいがちだ。こんなことは言わなくてもわかるだろうと考えてしまう。そして伝わらないのはまさに、そのことが原因であるのだ。文章を書くとは自らを客観的に「見る」という行為そのものなのだ。

書くとはすなわち読むことである

語るときに最も必要なものは何だろうか。正しい言葉の使い方?語彙の多さ?表現豊かなレトリック?いや違うだろう。語るときに最も必要なもの、それはもちろんメッセージだ。どんなに綺麗にラッピングされたプレゼントでも、中身が入っていなければもらっても嬉しくないだろう。
これは当たり前すぎる事実だが、しかし巷にあふれる文章術ではほとんど触れられていないことも事実だ。

すでにここまで段階的に説明してきた「文を書く技術」は「世界や現実をどう捉える(=読む)」のかと直結しています。現実をどう読むかがはっきりと定まらなければ、書く内容そのものが出てきません。書く内容が不在の時ほど、「文を書く技術」という言葉が虚しいときはないでしょう。書く内容がたしかにあって初めて伝えることも可能になる。書くことがたしかにあるからこそ、それを第三者にできるだけ伝わるように書くという話になるわけです。

通常書くということは「読む」→「考える」→「書く」というようにプロセスの中の別々の単位のひとつであるように考えられている。だがそれは違う。
例えばそこに犬がいるとする。「あ、犬だ」と思うだろう。では「犬」という言葉を使わずにそいつを認識してほしい。「あ、しっぽを振りながらベロをだして動き回っている毛むくじゃらの動物だ」となるかもしれない。では「しっぽを振りながらベロをだして動き回っている毛むくじゃらの動物」という言葉を使わずにそいつを認識してほしい。
お分かりいただけただろうか。人間はモノを認識するときには必ず、言葉を使わなければならない。ありのままに捉えるなんてことなどできない。「これは何々である」と表明することによってモノを認識しているのだ。つまり書くという行為によって世界を読んでいるのである。

ミームマシーンではない私

本書は書くということイコール読むことであるという認識から、捉え方や考え方についてのレッスンに終始しているので文章を書く具体的なテクニックはいっさい書かれていない。それが「文章術」ではなく「文書術」とある所以である。
ツイッターフェイスブック等、人々がつながるための新しい手段がたくさん出てきた。だがそこで交わされている言葉のほとんどは複製だ。自分の言葉ではない。電子的に複製されたデータ、文化的に複製された考え方や概念、そして人間自身もまた生物的に複製された遺伝子そのものである。これはある意味仕方のないことだ。ミームマシーンとしてデータのコピーをばらまくことは生物に課せられた使命なのだから。
とはいえ生物にはもう一つ使命がある。それは突然変異の遺伝子となって、複製されていく新たなミームを生み出すことだ。そしてそれは誰もが可能だ。

右の図は本書でも引用されているエルンスト・マッハの『ビジュアル・セルフ』という、左目から見た世界をそのまま描いた絵だ。部屋の中がどう見えるかよく見てみると自分のまぶたや鼻や髭も景色といっしょに見える。
これがどういう意味か。当たり前のように見ている部屋の中や窓の外に見える景色、それは自分という存在から決して切り離すことはできないということだ。
「いま、ここ、私」という視点、これは複製されたモノで埋められた世界の中で唯一オリジナルのものだ。新たなミームとして広がっていくための唯一の要素だ。だがそれを普段は意識しない。景色を見るときに自分の鼻を意識しないのと同じだ。しかしその景色を人に伝えたいのなら意識しなければならない。私の見ている景色は他人とは違うということに気づくことが第一歩だ。
「いま、ここ、私」という視点を他者がわかるように提示すること、それが文章を書くということなのだ。

ミーム・マシーンとしての私〈上〉

ミーム・マシーンとしての私〈上〉

ミーム・マシーンとしての私〈下〉

ミーム・マシーンとしての私〈下〉